お知らせ
2020.02.20
沖縄本島北端、ヤンバルの自然と歴史が育んだ奥の茶、特に紅茶が美味しい

沖縄は、琉球の時代からお茶貧乏であった。沖縄の蒸し暑い気候のため、お茶の需要は高かったが、島内の生産量が少なく、日本本土や台湾から輸入に依存し、外貨の流出を招いていた。琉球王府時代から平成に至るまで、島内の生産量を増やし安く流通させる多くの政策が施行されたが、県民の茶への嗜好性の点等から大きな安定した事業に成長することは難しかった。その中で、際立って光を放つ一時代を作ったのが、ヤンバル奥地区である。

奥での本格的な茶栽培は、1929年(昭和4年)種苗圃の着手で始まった。1933年(昭和8年)に24名で茶業組合を結成した。その後、県から技官を迎えて台湾の釜炒機を導入した工場を建て、品質向上と生産量拡大を行い、組合60余名、農家の半数がお茶に関わった。

戦後、1948年(昭和23年)に74名で任意団体「奥茶業組合」を作り、焼け跡からトタンぶき簡易茶工場を新設し再興にまい進した。この組合での運営は、共同助け合い(ゆいまーる)の精神に基づいており、各員が有機的につながり、味が良く生産量を向上させた。また、本土へ研修者を送り、当時の最先端の技術や嗜好の情報を取り入れた。
沖縄復帰1972年(昭和47年)で、琉球政府の保護政策が無くなり、本土のお茶が安く入る厳しい状況となったが、奥茶業組合は、団結して品質と生産量を向上させ、本土への流通経路を安定し流通単価を下げる努力の結果、著しい業績を上げた。この業績が認められて、1975年(昭和50年)に、毎年全国より新しい農業事業の中でとくに優秀な団体を選出する朝日農業賞、1976年(昭和51年)に沖縄タイムズ産業賞を受賞した。

平成に入ると組合員の高年齢化で二人で扱う重たい茶摘み機が負担になり、軽量の農機具を使うシークワーサ(柑橘類)に徐々に移行し茶畑の面積が減少した。生産量が減少した別の一因として、沖縄の島産茶への嗜好性が低かった問題があり、早摘み茶として本土市場を主体とした流通体制に固定化されたことが考えられる。本土の時流が悪くなったときに安定した地元の需要が広く定着していなかったため、本土の需要縮小に伴い生産量が減少したと思われる。
令和となった今でも、奥のお茶は生産されており、奥共同店でも緑茶と紅茶が店の入って直ぐの一等地で販売されている。緑茶もバランスが取れて美味しいですが、紅茶は「東方美人」ウーロン茶に似て、蜜入りのような甘みがあり何も足さずに美味しく飲めます。

読者の皆様、ヤンバルの北端へお出かけの際は、辺戸岬から約8kmの奥地区へ足を延ばし、奥共同店でお茶をお求めになってはいかがでしょうか。亜熱帯の森林に開けた茶畑を想像しながら味わうと、とてもリラックスできると思います。

私は、保温カップに沖縄の蒸留酒である泡盛を熱い濃ゆい紅茶で割って、香りと旨さをゆっくりと味わっています。
By 山田